絵具、絵画材料のホルベイン

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製品カタログ初版

 

1935年(昭和10年)に発行の総合カタログ。その時の社名は吉村洋画材料店。
画筆やパレットなどの商品は正確で美しい線画によって表現されている。
ちなみに当時の価格は、スケッチ箱入りの油絵具と画材のセットが7円20銭。
油絵用セーブルの平筆が1円20銭。

ホルベインのはじまり

吉村商店の設立

創業者 吉村峯吉

創業者 吉村峯吉

創業者である吉村峯吉は、16歳で故郷の和歌山県那賀町を離れ、大阪の靱(うつぼ)にて廻漕業を兼業していた材木問屋・吉岡商店に奉公した。この後、現役除隊を機会に独立して、北区出入橋において廻漕業を営むに至っている。やがて、当時心斎橋にあった辻本文具店の娘と結婚し、これが縁でまったく無経験の文具事務用品、次いで画材の業界を志すことになった。

明治33年(1900年)、大阪中之島において吉村峯吉商店を設立、文具の卸・小売を始める運びとなった。かくてこの年をもって、ホルベイン各社の創業の歴史の始まりとしている。

創業当時の様子

1908年関西時報の広告。(S)マークが記載されてある。

1908年関西時報の広告。
信頼の証しである(S)マークが記載されてある。

創業してほどなく、職人をかかえて金属文具クリップ、割ピンを製造開始することとなる。
本来、物を工夫することに長けていたのか、おそらくわが国では初めてであったと思われるが、小規模ながら洋綴じのノートを製造し大学ノートと銘打って好評を博した。
大正の初頭(1912年頃)が吉村峯吉の商品開発意欲の旺盛な、また商売も製造卸とも順調に進展し、意気大いにあがった頃である。
株式会社カワチ初代社長・河内俊氏の回想談によれば、「明治末期の吉村商店は、道路を隔てて東と西に分かれ、東側はノートを主力にクリップや手帖類を扱う卸業で従業員は5人ほど、西側の店は洋画材料・製図器と、文具の卸・小売を営み従業員は3〜4名であった。」
洋画材料は舶来の絵具が主で、ドイツのベーレントハーバーやシュミンケが代表的なものだったが、国産絵具には桜木の油絵具と水彩絵具があった。また、画筆は東京・浅尾払雲堂製品の代理店をおこなっていた。ちなみに現在も販売され人気の油絵筆のKA シリーズは浅尾払雲堂の創始者・浅尾金四郎の頭文字AK から取られた品番である。
当時、小阪の工場では既に金属製品はもちろん、キャンバスも製造していた。吉村峯吉が故児島虎次郎画伯のご示唆を得て苦心惨胆してつくり出したゴワゴワしたキャンバスが、国産キャンバスの最初であったようである。
東洋画布・故春木静男氏の言によれば、「(S)マークの金属文具は、東京方面では銀座・伊東屋、市川商店、池田商店さん等の大きな文具店を代理店として、文具業界ではずいぶん知られたものであった」。
大正13年(1924年)に入社したホルベイン画布・故田坂鶴義氏によれば、(S)製品はクリップ、割ピン、ホッチキス、それにチェックライターまで、東京の岩手商店、文祥堂さんに大量に買っていただいていたということだ。

関東大震災をきっかけに

1923年 関東大震災の様子

1923年 関東大震災の様子

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生し東京の産業経済は大混乱に陥った。
吉村峯吉も当日ちょうど上京中で、その災害の大きさを目の当たりにしただけに、何日がかりかで帰阪後、お得意先の再建に協力すべく、長期クレジットの送品をおこなって感謝されたという。
これを機会に活発に東京に進出するようになり、吉村商店の業績があがったであろうことは想像に難くない。
順調に進んで来た経営も世の中良いことばかり続くものではなく、大正13年(1924年)8月24日、吉村峯吉が51歳の生涯を閉じたため、吉村合名会社に組織変更することとなる。

参考資料:「わが交遊録」吉村徹元社長記録文より