注目の素材とその活用法 マチエールとテクスチュアの可能性
注目の素材とその活用法 マチエールとテクスチュアの可能性
最近、ある絵画団体の集まりで油絵具についての講演をした際、「近傍でやっている展覧会で見た絵のマチエールが独特だったのですが、見ればどういうものが使われているかわかりますか」という質問を受けた。その時は言下に「わからない」と答えたような気がする。結局、マチエールというものは、単純なテクスチュアの問題ではなくて、筆致や画肌など全てが作家個人に存するものだと思ったからである。100人の作家がいれば100種のマチエールが存在するだろう。私自身も絵を描くが、プロ作家でも芸術論者でもなく、ただの絵具屋であるので、「マチエールとテクスチュア」という言葉の定義はさておき、それらを形作る材料についての現代的な位置づけと今後の見通しについて述べていきたいと思う。
さて、ほぼ19世紀までは画家もしくはその工房によって絵具が造られていたので、画家自身がマチエールに関するすべてを理解し、材料を自在に使えたに違いない。それらが分業制となった今日、画家はメーカーによって造られた言わばブラックボックス化した材料を使わざるを得なくなった。そのため、絵具やメディウムなどを本質的に理解するのではなく、試行錯誤によって得られる知識によって絵を描くことになった。もちろん、膠彩画(日本画)やエッグテンペラのように自ら絵具を造る必要のあるジャンルもあるが、そうでない場合、絵具が顔料と糊材からできていることすら認識されない。今、改めてマチエールやテクスチュアについて述べるのであれば、基底材や色材の個々の性質から話を始めるのが本来だと思うが、それだけでも一冊の本ができてしまうに違いない。そこで、本稿では現代の材料で何ができるかを端的に述べるに留めたい。
21世紀になり、絵具の勢力分布は大きく変貌を遂げた。何よりも主役であった油絵具の座をアクリル絵具が奪い取ってしまった。油絵具が敬遠されるようになったのは、溶剤を使わなくてはならないという毒性の問題と乾燥時の匂いや乾燥の遅さという問題故であろう。この20年ほどで新規開発された材料は、ほとんどが合成樹脂系のものとなったので、今回紹介する材料もほとんどアクリル系に傾いてしまったが、その点についてはご容赦願いたい。
吸収性下地材の活用
それでは、皆さんが最終的にどういう絵肌にしたいかというところから話を始めよう。単純に言えば、平滑であるか凹凸があるか、ツルツルしているかザラザラしているかというような話である。粉を敷き詰めたような下地に糊を塗ると吸い込まれて表面は平滑になるが、ガラスや金属のような非吸収性下地の場合は刷毛目が残りやすい。絵具も同じで、できるだけ平滑で筆致を残さないようにするには、吸収性の下地が良いことになる。天然のエマルションであるエッグテンペラも水系であるが故に表面張力が高く、吸い込みの良い下地が求められた。古来、そうした意味で、石膏あるいは石灰石と兎膠で作られる吸収性下地が珍重された訳である。
ところが、近年ではボローニャ石膏などは良質なものが採れず、兎膠など膠産業も衰退してしまった。それらを救済するためにメーカーが作り出したのがアクリル樹脂を使った吸収性下地材である。ホルベインの「アブソルバン」や文房堂の「ミューグラウンド」がそれに相当する。本来、膠は低い濃度でも強い接着力があり、温水には溶けるが冷水には溶けないという特徴的な性質をもっている。これを合成樹脂で完全に置き換えることはできないので、樹脂製の吸収性下地材は本来のものと全く同じではありえない。しかし、膠を湯煎して溶かし、石膏を混ぜ、外温の影響を気遣いながら塗るという手間を思うと、樹脂製吸収性下地を試さない手はないと私は考えている。吸収性下地は基本、濃度の薄い糊に炭酸カルシウムなど無機質をたくさん入れているので、接着力が弱く、塗り重ねをすれば亀裂(クラック)が入りやすい。しかし亀裂したものでもサンドペーパーをかけた後、粉をきれいに拭い取れば充分に使用可能である。その下地に絵具が積み重なり、絵具の糊材が染みこむことによって、定着性が増していくので、あまり過度に心配する必要は無い。
むしろ心配なのは基底材に何を使うかであろう。伸縮性の大きなキャンバスを使うよりは木製パネルなど動きの少ない材質のものに目止めを施してから使うのが良いだろう。吸収性下地を使うメリットは鉛筆などでの細線が引きやすいことや油彩画の乾燥が速くなるなど様々ある。画面は艶消しとなるが、そこに絵具層が何層も積み重なっていけば平滑で光沢のある画面が構築される。アブソルバンはアクリル系の吸収性下地であるが、私自身はアクリル系絵具の下地としてよりは、油絵具用の吸収性下地としての方に適合性が高いと感じている。
● アクリル樹脂を使った下地材に油絵具を重ねた際の絵具の拡がり方の比較
上掲の図は、それぞれアブソルバンとジェッソを5回ずつ塗布した後、油絵具を塗布した時の違いを示したものである。ジェッソの場合、油絵具が拡がって膨らんでいるが、アブソルバンでは塗られた部分に留まり、拡がっていない様子がうかがえる。
アブソルバン
アブソルバンは油絵の古典技法における石膏地や白亜地と同様の「吸収性下地」を手軽に作れる下地材です。
油彩画・水可溶性油絵具 デュオ・テンペラ・アクリル画などさまざまな絵具の下地に使えます。
ジェッソは半吸収性〜非吸収性の下地材である
続いて、最近では下地に使われる事が多くなったジェッソの話をしたい。
「gesso」というのは辞書を引けばわかる通りイタリア語で「石膏」の意味であり、本来、吸収性の石膏下地の事を指している。ところが、現在売られているアクリル系のジェッソは「チタン白、炭酸カルシウムとアクリルエマルションなどの混合物」で石膏は含まれない。詐称と言ってよい中身だが、米国のメーカーが商品名としてしまったために世界中で「ジェッソ」という名称が罷まかり通ってしまった。以下の文中では便宜上、アクリル系ジェッソの事を「ジェッソ」と表記する。ただ、勘違いしてはいけないのは、ジェッソは吸収性下地ではなく、半吸収性~非吸収性下地である事だ。従って、ジェッソを施した下地に絵を描けば必然的にタッチが残りやすく、艶の出やすいものになっていく。
ジェッソは現在、各社各様、実に様々なタイプのものが販売されている。そのほとんどは配合されている無機材質の大きさによる差違である。例えば、ホルベインのジェッソでは、Sが6μm、Mが15μm、Lが40μm、LLが150μm 相当の粒径の粉が含まれていて、表面を手で触るだけで、その材質感の違いは明らかである。当然、どの程度の粒子が表面にあるかで、絵具の見え方や画肌など表情が異なる。
ところで、ジェッソには弱点があって、鉛筆などによる美しい細線が引きにくい。これは定着性のために配合されている粗い粒子が邪魔をするからである。この問題を解決するために、クリア ジェッソという透明性の高いジェッソが開発された。
先に下地に細線を引き、その上からクリアジェッソを塗る事で細線も見え、なおかつジェッソ本来の目的を果たすことが可能となる。上掲の図は市松模様の下絵の上にそれぞれのジェッソを塗ったものであるが、クリアジェッソは下絵がよく見えているのがわかる。その他、ホワイトだけではなく、カラージェッソという有色下地も販売されている。
現在、ジェッソはアクリル絵具の下地としてのみならず、油彩画や場合によっては水彩画の下地にも使う人が多くなってきた。実験室でもジェッソを下地とする油彩画の描画についてテストを行ってきたが、問題は生じていない。旧来の油彩画用キャンバスは膠を目止め剤として使用し、その上に油性塗料を施したものであった。ところが先述の通り膠産業が衰退したこともあって、目止め剤にはポバールなどの合成樹脂が施されるようになり、キャンバス塗料も油性ではなく水性の合成樹脂を糊材とするようになってきた。つまり現在使われているほとんどのキャンバスはジェッソ相当のものが塗られていると考えれば良い。
何でもかんでも、「とりあえずジェッソを塗る」という人がいるが、それ自体には意味がない。ジェッソを塗るのであれば、自分なりのマチエールを構築するための材料として種類や回数を考えるべきだろう。ちなみに旧来の膠の使われているキャンバスにジェッソを塗る事は厳禁である。なぜなら膠が緩んでしまってキャンバス塗料自体が剥がれてしまうからである。
テクスチュア画材の定番商品 モデリングペースト
さて、次にはテクスチュアを形作る基本的な材料について述べたい。ほとんどの画材メーカーが「モデリングペースト」という名称をつけているものである。中身は「粒子の大きい無機材質+アクリルエマルション」である。粒子の大きい無機材質と書いたが、クレーや軽石など様々なものが使われる。ものによっては軽量化するために合成樹脂の中空ビーズが使われているものもある。 要するに、粗い粒子を含む色のついていない絵具と思えば理解しやすい。ところがユーザーにとって不幸なのは、メーカー毎に非常にたくさんの種類があり、名称だけでは用途が理解できないことである。 それらを性質から分類してみると次の様になるだろう。
- ① コンテンツ(乾燥後の固形物の多寡)・・・やせの少なさ
- ② 重量(乾燥後の塗膜の重さ)
- ③ 粒子の大きさ
それぞれのモデリングのコンテンツと重量の関係について[図1]に示したので参考にされたい。
これらはユーザーのニーズに即して種類を増やしてきた結果である。せっかくモデリングで盛り上げたのに乾いてしまうと嵩が減るので、もっと目減りが少なく、また、ナイフなどで削りやすいタイプが欲しいといわれて誕生したのがハイソリッドである。図を見るとレギュラー品と対極にあるのがわかるだろう。近年は作品が大型化し、レギュラー品を使うと作品が重くなりすぎるので、それを解決するためにライトタイプが作られた。 また、ホルベイン社にもゴールデン社にもパミスタイプがあるが、レギュラー品よりさらに粗くてザラザラしたものが欲しいとの要望によってできたものである。さらに粗いコースパミスやエキストラコースパミスなどもラインナップに加わった。
絵具と混ぜて糊となる画材
続いて、絵具と混ぜる事によって直接、タッチをつけたり、粘性や透明性を変えたりする材料について言及する。一般的にはジェルメディウムと呼ばれているものである。中身はゲル状にしたアクリルエマルションそのものである。つまり糊そのものと言っても過言ではない。これも各社各様でたくさんの種類が用意されているが、残念ながら名称だけでそれぞれの違いを理解することは難しい。
ホルベインのジェルメディウムについて、それぞれの性質を分類してみると次の様な要素がある。
- ① コンテンツ(乾燥後の固形物の多寡)・・・やせの少なさ
- ② 使う時の粘度(抵抗が強いか弱いか)
- ③ 塗膜の硬さ柔らかさ
乾燥後のやせが多いものと少ないものは、[図2]に示したとおりである。
また粘度の高いものをヘビーボディ、低いものをソフトボディと称している。また、コンテンツや粘度が中程度であっても、乾いたときの表面が硬質になるハードや、艶消しになるマットなどもある。
基本的にエマルションはアクリル樹脂が水中に球体となって浮かんでいて、光があたった時に乱反射するために白い。これを絵具と混ぜると実際の色よりも白く見え、乾燥後は透明になるので、塗っている時と乾いたときの色感が大いに異なる。これを解消するために作られたのが、透明性の高いマイクロエマルションで作られたクリスタルジェルメディウムである。
● 乾燥前後のエマルションの比較
余談ながら、糊材としてアクリルの代わりに木工用ボンド(酢酸ビニル)を使う人が増えてきた。安価で手に入りやすいという理由によるが、アクリルと酢酸ビニルは極めて近しい構造を持つものの後者は耐水性が弱く耐久性に劣るので、基本的に絵画作品には使うべきではない。
画材の組み合わせは自由
ここまで様々な材料について書いてきたが、説明は情報に過ぎず、結局は自らの手で触ってみない限り、本当の事は分からない。モデリングペーストにしても本来はテクスチュアのためにそのまま塗るものとして開発したが、直接絵具を混ぜて塗ると独特な色調をもつ画面が得られる。また、ジェルメディウムというのは糊材そのものなので、過去の画家達が試みたように、様々なものを配合して独特なマチエールを構築する事ができる。それこそが画家の本来のあり方のように思える。是非、皆さんもメーカーが提供するものをそのまま使うだけではなく、自由にチャレンジをしていただきたい。
最後に、作家の技量を別にして、絵肌を決定づける因子に何があるかと言えば、主に①表面張力、②粘度、③PVC(顔料容積濃度)の3点ではないかと思う。それらをコントロールするための材料はたくさんあり、今回はそれらを網羅することはできなかったが、また何かの機会があれば紹介したい。
今後、こうしたマチエールを構築するための材料はどう進化していくだろう。本稿ではニーズによって生まれたいくつかの商品について書いてきた。おそらくはそうしたニーズによって生まれる物は今後も産み出されるに違いない。逆に、シーズから開発される革新的なものはかなり難しい。なぜなら画材メーカーは大手の化学メーカーが作ってくれる新規の化成品を受け身で待つ存在だからである。20世紀半ばにアクリル樹脂が乳化重合で作られるようになったとき、絵画の世界に大きな変革をもたらしたが、それに類したことは当分起こりそうもない。ただ、我々が探し得ていない材料が存在することも否定はできないので、それらを日々探索しているところである。私自身は低濃度で高い接着力を持ち、透明性の高い新たな樹脂が開発されることを祈っている。
「美術の窓 No.463」2022年4月号
「美術の窓 No.463」 2022年4月号に上記記事が掲載されています。
掲載元:
「美術の窓」2022年4月号
美は絵肌(マチエール)に宿る プロのワザ大解剖
◆文・小杉弘明(ホルベイン工業株式会社技術顧問)「注目の素材とその活用法 マチエールとテクスチュアの可能性」
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