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アーティスト インタビュー vol.13「寺内 大登」

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次代を担うアーティストの背景、作品に対する思い、メッセージを伺い、その素顔に迫る「アーティストインタビュー」。
前回からは最新の認定者である、第35回ホルベイン・スカラシップ奨学生のインタビューをお届けしています。

その第2回目は、いま注目される作家のひとり、寺内大登さんにご自身のアトリエで話をうかがいました。

モチーフについて

―まず寺内さんが絵を描きはじめたきっかけを教えてください
なぜ美大で学ぼうと思ったのでしょうか

子どもの頃から、絵を描くのは好きで、当然のように美術系の高校に進学しました。そこでは2年生でファインとデザインに分かれて、やはり作る行為自体の方が好きだったので、ファインかな、と。そこで初めて触れた油絵が何となく新鮮で、その流れで美大に進学しても油絵を専攻しました。

―美術系の高校を目指したというのはやはり絵を描くことがお好きだった?

あまり他のことは考えていなかったですね。

―ではしょっちゅう描かれていた感じですか?

そうですね、特別に何かを描いていたという訳ではないですが。
子どものころから何を描いたらいいのかわからないという部分がずっとありました。
描いてると楽しいのですが、よく模写とかするじゃないですか、好きなマンガとか写真とか。それがいま一つしっくりこないというか。

―私も子どもの頃、よくマンガとかマネして描いていました

それが、あまり意味がないというか、それはやはり本物ではないですよね。

―確かにオリジナルではないですよね

作者の方は頭の中に三次元の姿、その瞬間の、この人の、この角度、だというものがあると思うのですが、自分はその線を模写しているだけ。
そういうのは全く、何をやっているのかわからないというか。それでオリジナルのキャラクターをつくったりする訳ですけれど、単純に下手なのもありますが、よくわからなくて。実感が無いというか。
高校では、受験対策でデッサンとか組みモチーフとか課題があります。モチーフが目の前にあって描かなければいけない状況があるから描く訳ですが、そこでもやはり閉じられている感じがして。これがいくら描けても何にもならないなと。
美大に入ってから自由に制作できる環境になりましたが、ここでも特に言いたいことがあるとか、表現したいこととか、風景があってその情景をみせたいとか、ひとと共有したいという気持ちはあまり持っていなくて、どうしたものかな、と。

―その答えを大学で見つけようということだったのでしょうか?

見つけようというか、何をやっているんだ、というか。
「どこから来て、どう出るか」みたいなことには関心があって、学部生の間の、ほとんどの時間は、ずっとそのやり取りを考えていました。
油絵科は所謂インスタレーションみたいなことも含めた、間口の広い学科でもあって。僕はもともと服飾の方がより興味があって、どちらかといえば部屋だとか家具だとかもそうですが、人が関わってわかる・わからないことみたいなのに漠然と興味があったというか。見つけようとしたことで言えば、僕のそういうところにある関心を具体的にしたいという期待はありました。
だから、「表現する」という能動的なことより、「イメージ(図像・動機)が起こるって何だ」ということに興味があって、作品としては、最初、メタモルフォーゼのような感覚を使って描いていたような気がします。ちょうどそういうことを始めた頃に作家にも興味を持って、自然と気になったのも、Hans ArpとかArshile Gorkyとか、Paul Wunderlichだとかで、好きでずっと見ていました。
まずは例えば単純に、リンゴだとか猫だとかのモチーフがあるとしたらそのモチーフのどの個体のどの瞬間の何なのかが、直接的には無責任な気がするというか、やる意味もよくわからなくて素直に描けなくて。だから一旦取り込んで、線とか重さとか、思う実感を組んだ構造体、オブジェのようなものにしてから出す、みたいな図像の作り方をして、それを描くというような事をしていました。鉛筆で落書き程度ですが。

―モチーフを一旦、自分の中に取り込んで咀嚼、消化した上で再構成してアウトプットするということですか?

それが目的というより、そうする事で変換可能なものになると思っていました。
例えば、猫だとすると、そう捉えると、この子ということにもできれば、あの子ということにもできるし、二匹のことも言える、概念的というと違うかも知れませんが、そういう固有の物事に対して無責任なくらいこちらの実感にしてからでないと描くことに素直になれませんでした。
その後、もうちょっと言語的というか、関係性とか距離みたいな説明をしていたんですけど、「何と何の、こういったこと」「何々のあること」とか、そのような言語的なイメージを同じように像として捉えて構造体に変換するみたいな絵を描いていました。
この時は、みんなの持っている共同のイメージだと自分が思っている、「この感じは赤いイメージだよね」「こういうときは少し硬いよね」とかをちょっと借りてくる作業でした。それがそこからそのまま、さらに主題すら抜け落ちて、思いつく像に対してそれをするようなオートマチックな行為に変わっていきました。

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(作品画像「perfect traffic」2020年)

―ではモチーフはそれほど重要なものではない?

そうですね。モチーフから「何か」を受けるということはあるけれど、その「何か」というのは人それぞれ違うじゃないですか。ですが、受けたことで誰しもが何かしら感じる実感を、「像」という単位で捉えると、その「像」はものとしてみえるもので絶対的にあるものではありますよね。同じように、その「像」について、誰しも何かしら、それがあるということは思う訳で。だからあえてその「何か」について考えることについて自分はどうでも良くて。
ぼく自身は、作品が発生する条件として、そういった何かを受ける感覚器、道具として実感と支持体の間に必ず居ますが、「ぼくがどう思ってこれを出したか」とか「ぼくが何に関心を持ってこれをキャッチしたか」ということはどうでもいいというか、それは人それぞれあるものの、「ぼくの場合は」に過ぎないからです。
今、使っているこの椅子ですが、これに思い入れがある人もいればない人もいるし、形が好きな人もいれば嫌いな人もいると思いますが、結果として目に見える。目に見えて、「あるな」と思う。「あるな」と思って、「椅子」と思う人もいれば、それを知らない人、別のものに見える人も当然いる。そういうことと同じというか。
何かに見せようとした窓型の風景がある事をいうのではなくて、結局何をしても、ものが出来上がっているのだから、同じ条件にしたいというか、同じ条件でものに見えているのは当然で。そういうところに興味があるのかな、と思います。

―寺内さんのステートメントを拝見しました
一読しただけだと「どういうことなのかな」、というところがあったのですが、今、お話をうかがって寺内さんのモノの見方、考え方の基本が少しわかった気がします
私が不勉強なところがあって、寺内さん的なアプローチで描かれる作家さんは他にはあまり知りません
寺内さんは創作する前にはなにか準備はされますか?やはり見たままをそのまま取り込んでアウトプットする感じでしょうか?

先ほど話したように、前はもう少し構造体というか、物体のイメージがあったときはそれをなくす作業とかはありました。あと、レイヤーのイメージは何となくあって、こんな色の流れの、形の重なりの、こんな層な気がする、とか。反応を探る作業というか。
描いていると、描いたことに対しての反応がある訳ですが、それと同時に「こういう形にしたい」とか、思っているイメージに近づけていく作業があって、再現の作業というか。この、描くというプリミティブな行為に対して、描写という再現の作業の、一見、表裏一体とも取れる二重の行為に矛盾を感じて。
イメージに近づけていく、という一方通行なやり取りではなく、例えば、手に絵具がついてちょっと汚れてしまっただけでも地と図の関係ができて絵とわかるように、やったことに対しての実感がある事が段々リアルに思えてきました。
そういった経緯で、ステートメントにも書いたように、二重構造の絵という一つの考えというか、そういうものを着想しました。例えば、この部屋は実物としてあるじゃないですか。それと同時にこの部屋の図面がというものがあって、その図面は紙一枚にプリントアウトされていて、形、スケール、素材、何を取っても「この部屋」とは別の状態でそこにあって、線でしかなく、ぱっと見たときはその図面は一枚の絵、ものです。勿論、関係性は勉強していれば、この線はこの縮尺でこの部屋を俯瞰してみた形で…みたいなことはわかる訳ですが。要は、あること・動機に対してアウトプットをするときに必ず変換が起きるということです。そういった関係性が絵の起こるときにもあることにフォーカスして製作する様になったので自然と、準備のようなことはしなくなりました。

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―図面の例えはとてもわかりやすかったです
図面はいわば絵であるし、記号であるし、それはただ事実を第三者に知らしめるものですよね

そうですね。(作者の)何か思う、思わないことの結果、ものがあると思います。
形を作る行為と絵のやり取りの行為を別のベクトルでやる。すると像を作っていくことと同時に、距離を取るように反応によってしている行為があることに気がつき、同じ様に反応によって描くという行為をしていても、それによって図像が出来上がっていく。というように、別のベクトルで二つの行為がリンクしているように感じて。今はそういう感じでやっています。

―寺内さんにとって作品は必ずしも他人にみせる必要はない、という考え方もありますか?

それに近いかもしれないですね。
みせる為に作っていないですが、使うものとして作っているかなと思います。椅子とか食べ物とか、石ころでもなんでも何かしら使える訳じゃないですか。見たり座ったり踏みつけたり捨てたり。そういうことと同じように。
壁にかけていたら通り過ぎることができますし、それをみることもできる訳で、そこから雲の形だとか床の汚れなんかにするみたいに、何かのイメージとつながることもある訳です。
この線の形とかに思うことは人それぞれですが、この線があるなと思うことは誰しもある。このことしか信頼できない、その結果でしかない。何かしらの行為があって、その結果の集積がものとしてあったときは、それはみることもできる、というか。

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―寺内さんは作品を通じて、人が普段、何気なく思っていることをもう少し意識的に考えてはどうか、という提案をしているということでしょうか?

それはないですね。ものがあるということはそういうあり方だと思っていて、ぼくの絵も当然、目の前にあれば同じようにものであるのだから、それでしかないというか。そこで思惑みたいなことはないんじゃないかと思います。

―思惑といったものは一切介在しないし、させたくない

というより、それがあることとかないこととか、というのも(道具として作者が関わったときのそれぞれの)要素でしかないし、それを伝えるために作っても作らなくても、ものはものでしかない。そう思っているから関心がないので、結果として関心がないことは言っている、という事はあるかも知れません。

―作品を通じて自分をアピールしたり、自分の主張を表現する作家さんもたくさんいらっしゃると思うのですが、作品を描くという行為はそういうものではなく、寺内さんにとってはもっと普遍的なことなのでしょうか

普遍的なものではあると思います。思っていることや言いたいこと、結局そこを意識するか、もしくはそれを言いたいこととして表現してやろうと思うか思わないか、それで絵を描いているつもりになっているだけ、というか。結局絵は基本的に、筆を持って絵の具をつけて描こうと思わないと描けない、思う/思わないも全て自分と同じ等身大の行為です。ぼくは伝えるとか、表現みたいなこと、そういうのはどう伝わってるか、一切責任が取れないのでやりたくないです。

―モチベーションの持ち方は人それぞれだと思いますが、寺内さんの制作に対するモチベーションとはいったい何なのでしょう
寺内さんにとってモチベーションという言葉が適当ではないかも知れないのですが

ぼくも最近そのことについては考えていました。
つい最近まで学生だったので、ある意味やらされている立場というか。嫌とか嫌じゃないという意味ではないのですが、単純に美大の学生としてやらなければいけないことで。あなたが何かしらこの場所で、この時期やったら、どうなる?という立場にいたから、それに向かって制作をしていた部分があったのは確かです。もともと、やりたいということでもなかったですし。ただ、ぼくが描くものを持ったら文字より線を描きたくなりますね。
文字は描くのがすごい苦手なのですが、記号を描くのも。何かを使うということは再現的な作業であるし、借りてくる作業で、それはなんかあまり信用できない気がします。
例えば星のマークを描こうと思った、ということはあるけれど、星のマークを描くことはやっぱりちょっと違うというか。
例えば、これはつい最近の落書き程度のものですが、描くものがあれば、どうしてみたいか、どんな感じがするか、そのようなことが気になると言うか。

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―描いている時は楽しんでいますか

楽しんでいるんですかね(笑) これとこれがあった場合はこう、というか。

―ただ単に事実の記述?

楽しむというのはどうでもいいのかな。ここでやっていることと、起きることには関心があるとは思います。その結果どうなるのかも。この紙と、この鉛筆とマーカーとがあったら、こうなるかな、と言うところが気になります。

―紙があるとこうなる?

そうですね… 紙があるとこうなるのかな?

―それもちょっと違う?(笑)

面白いなと、思ったとか思わなかったとか、っていうのはある訳ですが、それはぼくが作品ができる間にいる道具として、天気がいいとか、お腹が空いているとか、利き手を怪我している…。だから良いなと感じた、というレベルのことだと思います。

―(作品をみながら)こういったドローイングをする時ですが、時間は結構かけたりしますか

これは適応なものなので、いいのが出来るときは出来るぐらいな感じのその場のものです。(別の作品をみて)これはここ最近の作品で、こういうことかな、と思うことがあって。それについて紙で、メモ程度にしてみたと言うか。
今までやっていたことがちょっと違うな、と。構造のこととか。
ドローイングのような瞬間的なやり取りというのは、あまりいいなと思っていなくて。絵の具がついて出来た結果には関心があるのですが…。
なんと言うか、ぼくはどんな簡素な落書きでもドローイングという言葉は使いません。印象として、「ドローイング(的な絵)だな」という風にみえて、他人にもそう言われる訳で。即興的というか、そういう要素を借りて描いている、というような見え方、ぼく自身もそう思うんですけれど、そういうタッチの良さってあるじゃないですか。ドローイング的なタッチの良さっていうのがあって、絵を描いている人なら多分誰しもわかると思うのですが、こういう脱力感がある線の良さというのは、もうちょっと大きなもの、歴史的なこととか潜在的なイメージとか、それを借りているんですよね。いい絵を描こうと言う時に、きっと。今のぼくの絵をいいなって思うことはそういう要素があるというか、その良さで作っている。で、ぼくもそれに興味があって良いとも思っている。
それは少し違うかなと思っていて。最近はあまり絵を描けていなくて、どういうことなのかなと考えています。それでもいいのかもしれないし。
いい絵、絵を良くする、良くなるってなんだって言うのは、ずっと前から考えています。
なんだそれって。自分でも良くしようとしてしまうし。

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(作品画像「無題(目をつぶれば見えなくなるもの/紙、みどり、蝋)」2022年)

―描くことはできるかもしれないですが作品を作っていないということですか

修了制作が終わって修了となって、あまり制作に向かえるタイミングがなく、そう言うとき少し考え過ぎてしまうところがあって。落書きをするとかはあります。

―それは今後、何かのきっかけで新たに制作を始める可能性もある訳ですね

そうですね。最近は素材のこととか、今はこういう紙の作品、紙を折りたくて。
キャンバスをはみだしたことをやっていて、それがいいのか悪いのかよくわからないのですが、素材とか支持体のこととかはずっと、気になっている部分があります。
何か気になることが別にあって、それをいつも調べたりとかやってみたりして、上手くいかなかったりして、若干どうでもよくなってから描けるようになってくる…みたいなリズムでいつもやっています。
(作品をみながら)こんな作品がなんとなく気になっていて、貼ったりとか、折ったりとか。図像を描くことと同じように折り目や色面があって、適当に折ったり塗ったりしてみて。

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(作品画像「wax on paper」2023年)

―今の寺内さんにとって、描くことと紙を折ることが近いことなのですかね?

というよりは、二重構造の意識から出てきたことなので、別ではないというか。
何かしらの動機によって思う、それに対しての、この物質感、即興的に描いた丸、プリントアウトした丸、切り取って貼った丸、色面、折り目、そこと、それとのやりとりで描くという行為が起きて、結果として絵があると思っていて、今はそれをやっています。
本当は一回分かれたものが、多分一緒にならなくてはいけないのですが、その一緒になる方法を探しています。
今はその方法論的に考えたこと、ルールに乗っかることで即興的なやりとりでする行為を許している、というか、やっていいことにしている、やっていいことになったんですよね。
動機に実感として、(不定形の)図像のイメージがいまもまだあるとして、それによって描けているとして、それイメージに近づかない、向かっていくような近づき方をしない。(ただ影響が)あるから、この絵具をのせる行為は起こる、という考え方だからできているという感じです。
最近は、やっていることの大枠の命題として「目をつぶると見えなくなるもの」ということがあって。修了制作や、いくつかの作品のタイトルにもこれを入れています。意味はそのまま、今までお話ししたことと同じで、やったことの結果として目の前にあるもので、目をつぶれば見えなくなることをやりたいと思っています。

寺内さんとホルベイン

―ホルベイン・スカラシップに応募していただいたきっかけは何ですか?

(スカラシップが)あるな、と思って(笑)、ちょっと出してみようかな、という感じです。

―それまでホルベインの色材・画材はあまりお使いになったことはなかったですか

今まで油(絵具)だったので、初心者セットに入っていたのを使ったくらいだと思います。
最近は紙の作品などはアクリルで描いていて、ちょうどタイミングが重なって。
画材が支給される前に買い込んでたりしていて(笑)、そんな感じでちょうどいい具合で試しているところです。

―それではホルベインの製品とはまだお付き合いは浅い感じですね

そうですね、蜜蝋とかは使っていたことがありました。
アクリルガッシュと蜜蝋と、気になるのは顔料から何か作るとか。そういうことも興味があって、スカラシップの支給ではそういう材料を選ばせてもらっています。

―油絵具はこれからも使っていきますか

そうですね、ちょっとわからないです(笑)
慣れてはいるし(油絵具は)ピュアな感じがする、生っぽいというか。

―ホルベイン・スカラシップは学校でお知りになったのでしょうか

そうかもしれません。多分、上の学年のひとがもらっていたりしたのでなんとなく存在は知っていました。

―初めての応募でしたか?

初めてでした。

―ホルベイン・スカラシップはポートフォリオでの応募なのですが、それはいかがでしたか?

どちらかというとこの方がいいです。
大きな一枚絵で、一発勝負で、というよりは、なんとなく全体的にやっていることを見てもらった方が自分にとってはいいかな、と思いました。

―画材の支給がまだ1回残っています(このインタビューの掲載時には終了しています)
 さきほど顔料に興味があるとおっしゃっていましたが、使いたいものをどんどん探していいってもらえたらと思います
今日はどうもありがとうございました

―描画することだけではなく、何かしら表現するということは、作品を通じて「自分」を出している方が多いと思っています。
自分を表現することは、絵を描くモチベ―ションのひとつだと思います。
一方で寺内さんのような、モノの構造や関係性など、自分の関心事を整理する方策の一つとして描画を使用するという、そういったアプローチも当然ある訳です。
それはとても興味深いですし、もっと寺内さんの作品を観てみたくなりました
きっと寺内さんから制作当時のシチュエーションなどうかがいながら作品を観ると、自分の思わぬ方向で合点がいく、とか。
聞き手の私にとって、それはおもしろい作業になるだろう、と感じました。

 

プロフィール

寺内 大登
TERAUCHI Hiroto

1999年
東京生まれ
2023年
武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻油絵コース 修了

受賞

2022年
第35回ホルベイン・スカラシップ奨学生
2021年
「長亭GALLERY展」入選
2020年
「シェル美術賞」入選

 


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アーティスト インタビュー vol.12

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